コラム

【歴史館】島津製作所:科学の神童が産んだ 鉛蓄電池

2020/5/19 15:00

【歴史館】島津製作所:科学の神童が産んだ 鉛蓄電池

2020/5/19 15:00

 充電を行うことで繰り返し使用できる蓄電池。電池工業会によると、日本では1895年に島津製作所内で二代目の島津源蔵氏が初めて蓄電池(鉛蓄電池)の試作に成功したことに始まるという。「天才発明家」「日本のエジソン」など科学技術者としての尊敬を集め、京都近代工業の祖とされているが、そんな天才発明家を生んだのは、父・初代源蔵の何気ない一言だった。

 幼い頃、島津製作所に次々と修理に運び込まれる機械は全て外国製のもので、後の二代目島津源蔵となる少年梅治郎は「なんで日本人はこのような機械を作れんのやろ」と父に聞いた。「作れんのやない。日本には機械を勉強した人がおらんのや」。その答えに、少年は奮い立ち、父に借りてもらったフランスの物理書を独学で学んだ。もちろんフランス語は読めず、挿絵と図解だけを参考に、ネジ、歯車、軸、ハンドルなど教科書通りの機械を作っては父を喜ばせ、周囲の皆を驚かせたという。



 それから源蔵は生涯178件の特許を取得するが、その代表となるものが蓄電池製造のための技術「易反応性鉛粉製造法」である。当時、蓄電池の最も重要な材料は鉛粉であったが、鉛を粉砕して粉にする技術はなく、海外製の粉砕機も粗く使い物にならなかった。そんな中で良質の鉛粉を大量に作れる同製造法の発見が如何に画期的だったかは、「常識では考えられない」という理由で特許が下りるまで3年もかかった事実が物語っている。

 こうして1897年、10Aの容量を持つペースト式鉛蓄電池が完成。これが日本における蓄電池の工業的生産の始まりとなり、明治時代の無線通信、鉄道、劇場、映画館などへの蓄電池ニーズに貢献したのだった。

※本記事は次代住宅専門誌 『月刊スマートハウス』 No.64に掲載したものより抜粋しています。